第403回メルマガの編集後記
咳と痰が出るようになって29日目になりました。98パーセント治りましたが、まだ2パーセントほど残っている感覚があります。
約3時間の映画『オデュッセイア』を観ているとき、対面でカウンセリングを行っているときは、咳で周囲にご迷惑をかけることはありません。一人でいるときは少しだけ出ます。
何度も述べている通り、これだけ続く症状というのは「ただの体調不良」ではなく、私は「心身の波動調整」だと思っています。その意味で今回の本文で述べた内容は「心の浄化」の大きなプロセスとして起こっています。
この追伸欄では、本文では述べなかった内省記録をさらに書き連ねたいと思います。これは昨日のショート動画で述べた「徹底的に考える」ということの実践でもあります。
【YouTube】昨日のショート動画
https://www.youtube.com/shorts/gCl4x1bYTZo
ただし文章がかなり長いですし個人的な自分語りも多いので、本当にご興味があれば読んでみてください。
*************
本文で述べた「教えと現実とのギャップ」について、個人的なことを書きます。
振り返れば、私が最も失望してきたのは、
・指導者の立場でありながら、指導者にふさわしい思想や信念を持たず、ただ言葉や外見の巧みさでもって商売をしている人間
・霊的な事柄への関心があり、祈りや瞑想などの実践を多少はしているにも関わらず、肝心な場面での言動はエゴに左右されてしまう人間
・かつては高い理想を抱いて学びと実践を積み重ねてきたにも関わらず、小さな成功に慢心して自己研鑽を怠ってしまった人間(しかし過去の実績で現象的にはうまくいっているように見える)
というタイプの人間でした。
私はもう中年にも関わらず、まだまだ青臭いところがあるのでしょう。高校生の頃から「社会に迎合する親や先公どもがみんなクソに見えて失望した」捉え方は、今も本質的には変わっていないようです。
現在は高校生の頃と違い、なまじっか人間の波動(オーラ)がある程度観えてしまう。だから余計に他人の「実像と虚像とのギャップ」がわかり、怒りや失望を感じてしまう。
もしかしたら「何が真実なのか知りたい」という強い願望が、師匠との出逢いを契機に「波動を見る能力」として開花してしまったのかもしれません。
波動がある程度わかるようになってからはなおさら、「虚像」の見せ方が上手な人間がこの世的にうまくいくケースに憤ってきました。だからこそ、スピ系や宗教系の「虚像」に関して多く発信してきたことは、過去のアーカイブをご覧になればおわかりの通りです。
逆に私自身は未熟さは抱えながらも、なるべく誠実でいたい、もし非があれば素直にお詫びをして改善しよう。そう思い続けてきました。今回もそのつもりで、自分の非を認め、改善しようと務めています。そのために、徹底的に言葉にしているのです。
ただ、冷静に考えれば、この世界は「虚像」と「実像」とが入り混じっています。何がウソで、何が真実なのか。その線引きは曖昧で、明確に区別することはできません。
たとえ私としては「虚像」に見えるものでも、ある人にとってそれは「実像」です。「実像」だと信じているものが、その人の心にとっては「実像」なのです。
詐欺とは「虚像」を「実像」だと信じてしまったことによる経済的・心理的損失のことで、その事例は枚挙に暇がない。スピ系・宗教系でもよくあることです。
最近でもスピ業界では有名な、そして何度かお会いしたこともある某インフルエンサーが、フォロワーに対し裏で詐欺まがいの行為をという事実を知り、面識がある分、湧いてくる怒りもまた強いものでした。
その方も「虚像」の見せ方はお上手です。本人の詐欺的な行為で泣いている人もいるのに、堂々と「人間のあり方とは?」とか「宇宙の愛」とか講釈を垂れている。私にはそんな厚顔無恥はとうてい真似できません。
私はできるだけ誠実でいたいし、「実像」に近い言動をしたいとも思う。けれどもよく考えれば、私が日々発信している動画は「自分をより良く見せる」という意図を持って編集された「虚像」ではないのか。
その「演出された虚像」に好感を持ってくださった方がチャンネル登録をしたり、中にはご相談を依頼されたりする。
中には私のことを「本物」だと信じてくださる方もおられる。でも、それは上記と同様に「虚像」を「実像」だと思い込んでいる、ということになりはしないでしょうか。
ただし私の場合は詐欺に手を染めるつもりはありません。「霊的な尺度」で考えれば、わざわざ「悪しきカルマ」を作る愚かな行為は費用対効果が悪すぎるからです。
いずれにせよ演出の巧みさで成功する人間も、演出が苦手で苦戦する私も、どちらも「演出」であることに変わりはない。「実像に近い部分を見せたい」というのも、一種の演出的意図なのですから。
となると、問われるのはたとえ「虚像」を見せるとしても、どれほど「実像」と乖離しているかということでしょう。
虚像が実像と乖離するほど、その人はウソをついていることになります。そのウソの差分だけ波動(オーラ)は重たくなってしまう。
それでもって "不運なことに" 現世的にうまくいってしまうと、さらなる差分として波動はさらに穢れてしまう(虚像でうまくいかない方が波動的にはまだマシなのです)。
そのように現世的には得をしても霊的には大損している人に対し、私は別に失望や怒りを覚える必要はないのではないでしょうか。なぜなら「霊的尺度」から観れば、その人は現世的なプラス以上の「カルマ」を負うことになるからです。
そう頭では理解していても、私の内側にはそういう人たちに対する失望や怒りが消えません。そこをもっと突き詰めてみると、私の中にそういう人たちに対する「嫉妬や羨望」があるのではないか、という疑いが出てきます。
実際、「畜生!あいつらうまいことやりやがって!」という怒りがあるのは確かですから。
本文では「自分の中には人に好かれたい気持ちがある」と述べましたが、ここではさらに「嫉妬や羨望の裏返しとして、野心・野望もある」のではないか。ということは、「うまいことやっている」人たちに対する嫌悪感は、いわば「同族嫌悪」のようなものかもしれません。
彼らも自分も、実はそれほど大きな違いはないかもしれない。ただ私の場合は、波動(オーラ)を低劣にしてまで「虚像」を演じたくない、という強い思いがブレーキになっています。これは波動がある程度観れて良かったと思う一面です。
しかし・・・さらによく考えてみれば、「自分には野心・野望がある」と言っても、そこまでお金が欲しいわけではありません。過度な贅沢さえしなければ、今のままでも十分にやっていけます。
またすでに述べた通り「人に好かれたい」という気持ちはあるけれども、かといって人気者になることで「一人の時間」が確保できなくなる方がもっと嫌です。そもそも私は幼少の頃から「一人遊び」ばかりしていた人間ですから。部活もメインは水泳部。一人でもできるスポーツです。
ただ、一つだけ野心・野望があるとすれば「自分の人生を意義あるものにあらしめたい」というもの。言い換えれば「(生きているうちに)自己実現したい」「自分の存在を証明したい」という思い。
現代的な価値観では「自己実現」そのものは特に悪いものではないとされているけれども、本当はこれも物質的欲望の一つなのです。
なぜなら「自己実現」が客観的に認知されるには、他人よりも圧倒的な結果(その多くは数値で測定できるもの)を出さなければならないからです。
もちろん大きな目的に向かっていくことは良いのですが、自己実現そのものが自己目的化したとき、それはおのずと物質的欲望へと転化していきます。
本文で述べた通り「人に好かれたい」という思いをいまだ手放せないのは、「現世的な自己実現」をまだ心のどこかで求めているからでしょう。
「金銭」とか「人気」とか、具体的にわかりやすい物質的欲望を強く求めているわけではありません。ただ「現世において自分の存在を意義あらしめたい」という、いわば「抽象的な自己実現欲求」は確かにあるのです。
私はそれを【半物質的な欲望】と名付けることにしました。完全なる物質欲ではないものの、「自分の精神を現世に残したい」という思いは物質界と精神界の半々にまたがる欲望です。だから【半物質的な欲望】という表現は個人的にはしっくり来ます。
これを踏まえると、「うまいことやる人たち」に対し私が怒りを向ける背景には、それは「比較的簡単に自己実現ができている(ように見える)」ことに対する羨望があるのではないか。
私自身がまだまだ道半ばで、ほとんど思うように進まない日々を過ごしているから、「いいな、あいつらは!うまくやりやがって!」と羨む気持ちが出てしまうのではないか。
連中のように「自分も現世で自己実現したい」という思いに囚われるとき、それが全然できていない現状に対し、自分ではなく連中に怒りを向けてしまうところがあるのではないか。
本当は怒りを自分に向け(自責)、さらなる向上に向けて努力すればいいだけなのに、そのエネルギーを「他責」に漏らしてしまう。これは野心が生み出す悪い状態です。
その一方で「本当は羨むものなど何も無い」という思いもあります。
というのは、私は「うまいことやること」によって波動(振動波)をエゴで歪めてしまう行為に対し「ただ純粋に腹が立つ」という側面もあるからです。
スピリチュアルという本来は「神聖なる領域」を醜いエゴで冒瀆しようとする連中が、ただただ許し難いだけなのかもしれません。
そうなると、連中に対する激しい怒りは、自分の中の「理想」から湧いてくる憤激のようなものでしょう。それは単なる怒りではなく、嫉妬や羨望でもない。ただ「理想に抵触することへの怒り」という純粋な一面もあるわけです。
となると私の中には「理想」と「野心(半物質的な欲望)」がマーブル状に混在していると言えるでしょう。
連中に対する同じ怒りでも、純粋な理想から湧いてくる憤激の場合もあれば、「現世で自己実現したい」野心(半物質的な欲望)から湧いてくる嫉妬や羨望が主成分の怒りもある。
今はこの後者の怒りにもっと自覚的でなければなりません。というのも後者の怒りを抱けば抱くほど、私の波動は連中と同調して穢れていくからです。
理想が野心より大きければ、「小手先でうまいことやったところで、長期的あるいは霊的に観ればマイナスの方が大きい。自分はたとえ目立たなくとも、粛々と自分の道を歩めば良い」と肚を据えることができます。
一方、野心が理想より大きくなると「畜生!なんでこんな遠い道を選んでしまったんだ!ややっぱり理想の低い小手先の連中が羨ましいな!」と、ヤケが起こってしまう。
これはもちろん私の未熟な点で、いまだ理想を求める覚悟が徹底されていない。状況によって理想に傾くときと野心に傾くときがある。要は中途半端なのです。それが今回の出来事にもつながっているのでしょう。
ただ、たとえ野心による嫉妬や羨望混じりの怒りが強く出たとしても、かといって「自分も虚像を作って巧みにやろう」とまでは思わなかった。それはやはり、連中の穢れた「瘴気」のような波動(オーラ)を観てしまっているからです。
そこまでして「魂を売ろう」とまでは思わなかった。ユダのように銀貨30枚で「内なるイエス」を売ろうとまでは思わなかった。最後に大きなストッパーが働いてくれることは、大きな救いと言えるでしょう。
そうなると「結局どうしたいんだ?」という問いになりますが、考えは巡り巡って、結局は「理想をどこまでも求め続け、ときどき野心に傾いてしまう状態に注意するしかない」という答えになります。
今こそ【半物質的な欲望】を手放さなければならない。そうしなければ、今後の成長・成熟はない。何となく日々活動しているように見えても、魂の進化は少ないでしょう。
これからは現世的には肯定される「夢の実現」はもちろん、半物質的な「自己実現的野心」すら求めてはならない。自己実現を求めると、必ず「人に好かれたい」という欲望が湧いてくる。そうなると、少しずつ理想が歪み、いつの間にか侵食されてしまう。
そうなると、たとえ物質次元では自己実現がうまくいっているように見えても、魂の次元において堕落してゆく。そんな事例を、私は霊的な視点でもっていくらでも観てきました。
もっと言えば、「人生を意味あるものにしよう」と思ってもいけない。言い換えれば、幸せを求めてはならない。意味、意義、幸せは求めるものではなく、与えられるものです。なすべきことをなした報償として、天から与えられるものです。
それ以前に「すでに与えられている恩恵」に目を向ける必要があります。天の恩、地の恩、親の恩。縁あってこの世に人間の生を享けたこと。魂を磨く機会を与えられたこと。
いまだ道半ばどころか、一歩か二歩程度しか進んでいません。けれども、曲がりなりにも今年で12年目、何とかご信頼いただいてこれまで継続させていただいている事実を、深く噛み締めなければなりません。
そうやってもっと「恩に生きる」ことができれば、野心はやがては消えてゆくでしょう。無理して「生きた証」を残さずとも、「自己実現」を求めなくとも、十分に報われているではないか。
そういえば、YouTubeのチャンネル登録者が当面の目標だった1000人を6年9ヶ月かかってようやく達成できたとき、何の喜びも感じなかった自分に愕然としたことは、数回前のメルマガでも述べました。
その事実が「現世的な自己実現の儚さ」を明確に示しています。たとえ物質次元でさらに自己実現できたとて、「魂の自分」としては何も満たされなかった。
だから「夢の実現」はもちろん、半物質的な「自己実現」すら、もう求めない。となると、では何を指針とすればいいのか。
現世に目標を置かないなら、『【神】だけが唯一の目標である』と何度も思い定めるしかないでしょう。
そして未来における自己実現ではなく、「今日一日だけを真剣に生きること」だけに集中しなければなりません。
それは無計画かつ近視眼的に生きることではありません。「今日一日」に全集中することは、現世的な自己の欲求を常に「殺し続ける」ための具体的技法です。「将来設計」や「未来の自己実現」という(私の場合は)半物質的欲望に囚われないための工夫なのです。
これは「足元に死生観を据え置く」ということです。「いつ死んでも悔いがない」というあり方は、遠い将来のことを考えていてはできないことです。
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。」(マタイ福音書・6:34)
「奉公は今日一日するとさへ思へば、如何様なることもさるるなり。一日の仕事ならば、どうもこらへられるべし。翌日も亦一日なり。」(葉隠)
ここまで考えてきて、ようやく「一日一生」という言葉の深意が少しわかるようになりました。これも知識でも理解でもない「気づき」だということです。
「世の中に受け入れられたい」という思いが「人に好かれたい」という小さな渇望を生み、それが澱のように溜まったことが今回の状況を生んでいるのなら、これも過去に述べた通り「人を相手とせず、天を相手とせよ」(西郷隆盛)という教えに改めて徹しなければなりません。
この言葉は毎日必ず唱えているのですが、まだまだ体得できていません。私もまだまだ知識と理解だけに留まっている段階なのです。
本文で述べた師匠の言葉「あなたは『人に好かれたい』気持ちがまだ少し残っている。それを捨てない限り、本当に自分の運命を生きることはできない」が、改めて身に沁みてきます。この "少しでも" の部分を本当にわかるのは、本当に難しい。
それは得ることではなく「捨てる」ことによって初めて体得できるわけですが、この「捨てる」勇気を持つには、自分が抱えている種々の観念がいかにくだらないゴミであるかに気づかなければできません。
今回はこの場をお借りして、自分の中の「ゴミ」を浄化しようと務めているわけです。
「天命」に向かって生きるとは、現世的な欲望をなるべく遮断することと同義です。たとえ煩悩は無尽であっても、何とかそうありたいと仏神に誓願を起こすことによって、初めて少しはまともに生きられるようになるのでしょう。
ここまで書いてきて、ようやく「諦め」という感覚が濃くなってきました。そう、やることさえやれば、あとは天にまかせるしかない。うまくいくとかいかないとか、それは自分の預かり知るところではありません。
もちろん日々の活動としては、「真のスピリチュアル」をコンセプトに、なかなか難しい話をできるだけわかりやすく伝える工夫は必要です。いまショート動画に字幕を入れるようになったのも、なるべく取っつきやすいものでありたいという思いからです。
そして、せっかく活動するからには、なるべく多くの人に知れ渡ってほしい。お花畑でもエンタメでもない「真のスピリチュアル」があるのだということを知ってほしい。この欲求は健全だと思います。
ただし、これを「現世的な自己実現欲求」「この世に生きた証を刻みたい欲望」と結び付けてはならない。「この世でのわかりやすいゴール」を求めてしまうと、すでに述べた通り、理想がだんだん歪んでしまうからです。その結果、他の「うまいことやっているであろう連中」への怒りが出るようになってしまう。
難しいのは、肉体の活動としては自己実現に向かっていくが、一方で安易な自己実現を求めてはならないという「二律背反」を突き抜けなければならないことです。
ここを突き抜けるには消極的に言えば「諦め」が必要であり、積極的に言えば「祈り」が必要だということになります。つまり肉体・理性のレベルでは「得る活動」をするが、魂のレベルでは「捨てる活動」をするということです。
【捨てるための祈り】とは、一般的に言われている「願望実現の祈り」や「神社仏閣での祈願」のような【得るための祈り】とは真逆の方向性です。もちろん本質的なのは【捨てるための祈り】であり、これは真のスピリチュアルです。
今こそ自分自身がこれを実践するときが来ている。エゴにとっては大きな脅威ですが、ここに向かわなければ魂の飛躍はありません。
今回しばらく続いている肉体の不調は【心身の波動調整】だと言いました。ここまでいろいろか考えてきて、今回の結論は【捨てるための祈り】に行き着きました。
さらに言えば、【死ぬための祈り】ということです。「現世的な自己」を常に殺し続けること。そのことによって、本来的な自己が立ち上がってくる。まさに「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という言葉の通りです。
これまではどこかで「自己実現」を祈っていたのでしょう。『世界平和の祈り』の中に「私達の天命が全うされますように」という文言がありますが、全うされるのは「天命=大生命」であって、「小さな自己」ではありません。
天命の成就とは自己の実現ではなく、その自己を殺すこと。言い換えれば「自己を天に還す」ことです。「捧げる」と言ってもいい。しかしそこにあるには悲壮感ではなく「大いなる喜び」でなければなりません。
日にちまでは言いませんが、今月は誕生月でした。簡単な誕生日占いでは、今年は変化の一年になる流れです。すでにその流れは感じていますが、今日はここで【根本的な心気転換】について集中的に考えてみました。
………………………………………………………………………………
【バックナンバー】
過去90日分だけ閲覧できます。
https://mail.os7.biz/b/0uq5
【配信停止はこちら】
面白くなければ遠慮なくどうぞ!
解除専用ページURL
【配信先アドレス変更】
下記URLから変更できます。
変更専用ページURL
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃
【発行人】林 昭裕
【WEB】http://prism-life.com/
【お問い合わせ】https://prism-life.com/contact/
【X(旧Twitter)】https://x.com/akihirohayashi4
【Instagram】https://www.instagram.com/mazispi/?hl=ja
【Threads】https://www.threads.com/@akihiro_hayashi3
【Facebookページ】
https://www.facebook.com/akihirohayashi/
【Facebook】https://www.facebook.com/hysakihiro/
(※面識のある方は友人リクエスト承ります)
【note】https://note.com/easy_loris9522
【StandFM】https://stand.fm/channels/644625d79afdfc28caf6b95f
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
記事一覧
【マジスピ】第404回:「親孝行」は仲良くすることだけではない
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアリスト 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第404回 / 2026年10月03日発行 / ■□■□■□■□■
2026年10月03日
【マジスピ】第403回:深い気づきや学びを得るための姿勢とは?
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第403回 / 2026年09月26日発行 / ■□■□
2026年09月26日
【編集後記】 咳と痰が出るようになって29日目になりました。98パーセント治りましたが、まだ2パーセントほど残っている感覚があります。 約3時間の映画『オデュッセイア』を観ているとき、対面でカウン
2026年09月26日
【マジスピ】第402回:死や痛みを忘れた世界は「ディストピア」である
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第402回 / 2026年09月19日発行 / ■□■□
2026年09月19日
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第401回 / 2026年09月12日発行 / ■□■□
2026年09月12日
【マジスピ】第400回:〈AI世紀〉は「人生の意味」がより深く問われるようになる
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第400回 / 2026年09月05日発行 / ■□■□
2026年09月05日
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第399回 / 2026年08月29日発行 / ■□■□
2026年08月29日
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第398回 / 2026年08月22日発行 / ■□■□
2026年08月22日
【マジスピ】第397回:この世のウソや不条理を乗り越えるために
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第397回 / 2026年08月15日発行 / ■□■□
2026年08月15日
【マジスピ】第396回:「自己啓発」の本当の意味を知っていますか?
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第396回 / 2026年08月08日発行 / ■□■□
2026年08月08日
【マジスピ】第395回:怒りや憎しみを「生命エネルギー」に転換しよう
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第395回 / 2026年08月01日発行 / ■□■□
2026年08月01日
【マジスピ】第394回:人間の本当の魅力は「悪の欲望」から生まれる
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第394回 / 2026年07月25日発行 / ■□■□
2026年07月25日
【マジスピ】第393回:ご先祖に「守られる」ために背負うべき覚悟
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第393回 / 2026年07月18日発行 / ■□■□
2026年07月18日
【マジスピ】第392回:よき人生とは、よき思い出を残すこと【葬送のフリーレン感想】
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ スピリチュアルカウンセラー 林 昭裕の ┃マ┃ジ┃ス┃ピ┃メ┃ル┃マ┃ガ┃ 第392回 / 2026年07月11日発行 / ■□■□
2026年07月11日