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わかるWebメールマガジン

標高3,700メートルの闘い

2020年11月06日

吹き荒れる強風
硬く凍った雪面。

一歩一歩
登山靴に付けたアイゼン※が
雪面に突き刺さる。

もし風にあおられて
バランスを失ったら
どこまで滑落するかわからない急斜面。

そんな雪山を登っている
7人の男たち。

彼らは、電機メーカーや
建設会社の技術者たちで
山登りに関しては全くの素人だった。

※アイゼン
金属の爪が付いた登山用具


彼らは、お互いを
ザイル(クライミングロープ)で
繋がなかった。

一人が滑ると
みんなが滑落してしまう。

だから、もし滑り落ちたら
一人で落ちていってくれ。

そういう意味だった。

念のため
家族に遺書を残してきた者もいた。

真冬のこの時期

本来山と無縁な彼らが
なぜこのような危険な場所に
やって来たのか?


標高が高くなるにつれ
酸素が薄くなる。

そして、目の前には
急斜面のアイスバーンが立ちはだかる。


やがて、彼らは頂上に到着した。

氷点下20℃
最大風速100mの突風が吹き荒れる。

地上でいえば、家屋が倒壊し
車が持ち上げられて飛ばされる。

森林の大木でも
引き抜かれることがある。

「風速100m」とはそんな威力だという。

ここは、標高3,776m
厳冬期の富士山頂だ。



こんにちは!
わかるWebの国府田です。



●伊勢湾台風の爪あと

昭和34年(1959年)9月に
超大型の「伊勢湾台風」が
日本に上陸しました。

被害家屋83万戸
死者・行方不明者は5,000人にのぼり

東海地域を中心に
壊滅的な被害をもたらしました。

明治以降の日本の台風災害史上で
最悪の惨事でした。


ここまで甚大な被害になったのは
台風の威力はもちろんのこと

当時の気象レーダーの性能にも
問題があったようです。

当時のレーダーは観測範囲が狭く

スピードが早い台風が来た場合には
それを認識できるのが
「上陸する3時間前」だったそうです。

これでは、台風の襲来に
対策をとる余裕もありません。

伊勢湾台風の時のような惨事を
二度と繰り返したくない。

何とか対策を立てなければならない。

それが、社会的な急務でした。



●巨大台風から日本を救う

巨大台風の来襲に準備するためには
24時間以上前に
南海上で台風を捉える必要があります。

そのためには
気象レーダーでもっと広い範囲を
カバーしなければなりません。

いったいどうしたらよいのか。

答えは、「4,000mの高さ」に
気象レーダーを設置することでした。


4,000mの高さ。


日本で
その高さをおおよそ満たすには
富士山頂しかありません。

しかし、果たして富士山頂で
そんな工事ができるのか?

当時、世界でも
そんな高いところに気象レーダーを
建設した例はなかったのです。



●9,000人のスタッフたち

「富士山レーダー」の実現のために
巨大プロジェクトが立ち上げられました。

時代は、高度経済成長期。

戦後、団結力やチームワークで
日本を支えてきた「延べ9,000人」が
このプロジェクトに関わることになります。


プロジェクトの総責任者は
気象庁測器課の藤原寛人課長。

気象庁随一の一徹(いってつ)者
と呼ばれていました。

この藤原課長とは
なんと、後に「新田次郎」のペンネームで
作家として活動し

「八甲田山死の彷徨」
「アラスカ物語」他
多数の著書を出した、その人でした。


富士山レーダーの工期は
2年とされました。

しかし
実際に工事ができる時期は
雪が消える夏の2か月間だけ。

まさに、時間との闘いです。

成功すれば
富士山レーダーの観測範囲は
当時、世界最大になるものでした。


そして、いよいよ工事を
6か月後に控えた時

大きなアクシデントに見舞われます。

計画の大きな「見落とし」が
発覚したのです。



●レーダーを動かす遥かな直線

富士山レーダーは
気象庁から電波を飛ばして
遠隔操作を行わなければなりません。

そのためには
東京の気象庁から富士山頂まで
遮ることのない一本のラインが
通っていなければならないのです。

途中で何かが邪魔をしては
電波が届きません。

ところが、途中に
その「邪魔もの」が
あるかもしれなかったのです。

「邪魔もの」は
いったいどこにあるのか?

それは、レーダーを設置する
富士山頂にありました。

レーダーの建設予定地は
山頂で一番高い「剣ヶ峰(けんがみね)」
という地点。

障害物かもしれないものとは
剣ヶ峰から見て「反対側の頂き」でした。

剣ヶ峰から東京方面を望むと
その「頂き」が遮っているように見えます。

まさに、富士山自身が邪魔をしている!


これに気付いたのは
レーダー開発を担当する
三菱電機と大成建設の技術者たちでした。

計画の根幹を揺るがすような事態です。

そこで、彼らは
自らが富士山に登って確かめる
と申し出たのです。


昭和38年
かつてない大雪に見舞われた冬。

その冬に、彼らは危険を冒して
富士山頂に登りました。

冒頭に登場した7人が、彼らでした。



●かすかな光

果たして、富士山頂と気象庁を
直線で結ぶことができるのか。

実験計画はいたってシンプル。

日没後、山頂から強力な発光体
(発煙筒のようなもの)をかざし
東京の方向に向ける。

その光を
東京・気象庁の計測課の望遠レンズで
確認できたらOK、というものです。


それにしても・・・

今なら、例えばレーザーとか
他にも方法が考えられるのかもしれませんが

「発煙筒の光を肉眼で確認する」とは
何とも危うい気がします (^^;)

望遠レンズで見るとはいえ
その距離は100kmです。

気温によって、途中で
光がゆらゆらしてしまわないか

いやそれどころか
光が弱過ぎて、小さ過ぎて
見逃してしまわないか。

いくつもの心配が
頭をよぎりますよね・・・

しかし
その方法しかなかったのでしょう。


彼らは1週間
富士山頂から光を送りました。

しかし、気象庁では
全く光は見えませんでした。


光が届かないとなると
遠隔操作の電波は届かない。

もはやこのレーダー計画は
頓挫することになるのか。

山頂の彼らは、やがて下山を決意して
最後の10数本の発行体に
まとめて火をつけました。

これで最後だ。

東京に向けて
最後の光をかざしました。


夜8時
気象庁でそれは確認できました。

一瞬のことだったが
光が見えた!

山頂の彼らに
無線で「成功」の知らせが届きました。

「バッチリ見えたぞ!」

最後の最後に見えた
かすかな光でした。

これで、遠隔操作の電波は
届くはずだ。

「富士山レーダープロジェクト」は
こうして第一歩を踏み出したのです。



●次々とやってくる「不可能」

プロジェクトは
とにかく「不可能」の連続でした。

山頂では
セメントを練る水がなく
雪解け水を探して
急斜面を往復するありさまです。

工事のために地面を掘れば
夏でも溶けることのない永久凍土に
突き当たる。

そして何よりも
山頂の空気は地上の3分の2の薄さ。

作業員は次々と
激しい頭痛や吐き気に襲われました。

高山病です。

さらに、山頂付近では
雷がこの世のものとは思えないほど
すさまじい音で落ちました。


当初30人いた作業員は
次々に下山してしまい

新たに人員を補充しても
一週間ともたずに帰ってしまいました。

絶望的な状況です。

それでも
当時29歳の現場監督・伊藤庄助は
下山しようとする作業員を一人一人説得して
作業を続けました。

彼自身、慢性の高山病と疲労によって
顔が青黒く腫れ上がっていました。

しかし
現場監督という職務、責任感が
彼をギリギリのところで踏ん張らせました。



●風速100mに勝て

レーダー開発を進めていた
三菱電機の技術者たちも
難問にぶつかっていました。

富士山頂に吹く突風は
風速100m以上。

果たしてレーダーアンテナが
そこまでの強風に耐えられるのか?

徹夜で議論が繰り返されました。

考え抜いた挙句
彼らはアンテナを
頑丈なドームで覆うことにしました。

このレーダードームは
風速100m以上に耐えられるように
アルミ合金で骨組みが作られ
数ミリの狂いもなく、仕上げられました。

技術者たちのプロ根性と粘りによって
完成したのです。



●山頂の乱気流

そして最後に立ちはだかる「不可能」

それは、ヘリコプターで
山頂までレーダードームを運ぶ
という作業です。

レーダードームは
骨組みだけで620kgの重さです。

ところが
ヘリコプターで空輸できる限界は
450kgだったのです。

これでは、とうてい運べません。

しかも、富士山頂では
気流が予測できず
予期せぬ乱気流が起こる可能性があります。

実際にそのころ
報道機関のヘリコプターが
乱気流に巻き込まれて墜落する事件も
起きていたのです。


「この仕事のパイロットには
この男しかいない」

ここで
旧日本海軍航空隊出身の神田真三に
白羽の矢が立ちました。

彼は、山火事の消火や
建設資材の輸送などのプロでした。

しかし、富士山の河口付近は
飛んだことがありません。

神田は、複雑な富士山の気流を
克明に調べました。

そして
次のような結論に達しました。

「ヘリが10cmでも火口の中に入ったら
最後だ」


空輸日は
8月15日に決定しました。

奇しくも終戦記念日です。

太平洋大戦のとき
神田は海軍航空隊で
零戦のパイロットを養成する
教官だったのです。

特攻作戦で戦地に向かう
多くの若い教え子たち。

彼は、それを見送りました。

みんな戦地に散っていった。

自分は生き残った。

だから、自分は精一杯
頑張らなければならない。

彼は、強くそう思っていました。


ヘリコプターの機体を
少しでも軽くするために
鉄製の扉は外され
副操縦席もおろされました。

そして
620kgのレーダードームは
ヘリコプターに釣りあげられ
富士山頂に運ばれました。

山頂では
ホバリングの味方をしてくれるはずの
「向かい風」が止んでしまい
危険なホバリングが続きましたが

何とか、レーダードームを
土台の上に設置することができました。

多くの山頂のスタッフが
ヘリコプターに
感謝の言葉を投げました。


無事帰還した神田は
地上に着陸した後
2分間、機体から降りてきませんでした。

あまりの重圧、緊張、
そして安堵感に
動けなくなったのか。

あるいは
こみ上げる気持ちがおさまるまで
やり過ごしていたのかも知れません。



●成し遂げた男たち

昭和39年9月
ついに、富士山レーダーは
稼働を始めました。

レーダー画面には
半径800kmの範囲の映像が
映し出されました。

巨大台風をとらえるシステムが
できたのです。

それから35年間
富士山レーダーは台風から日本を守り

1999年11月1日に
気象衛星にその役割を譲りました。

現在、レーダードームは
富士山のふもとの富士山親水公園に
移設保存されています。


計画の総責任者、藤原は
後に語りました。

「非常に熱っぽい一団が
できあがっちゃったんです。

それであの仕事ができ上がったんです。

今考えてもわからない。

どうしてあんな素晴らしい仕事が
短期間でできたのか」


次々と立ちはだかる
「不可能」の連続。

それを解決していく
人々の努力による「奇跡」の連続。

今では古い気質とされているかもしれない
名もなきスタッフたちの「昭和の根性」が
これを成し遂げたのです。


いや、その「根性」は
きっと今でも
誰の心にも生きているはずです。

人が本当に困って
本気でそれを解決しようとする限り

不可能を可能にしようとする限り

諦めない気持ちがある限り

泥臭く、純粋で、ひたむきな
その精神は

必ず現れるはずです。



ではまた!



(NHKの「プロジェクトX」第1回で放送された
「巨大台風から日本を守れ」の内容を
抜粋・引用・加工しています)

(山頂の作業の様子は、大成建設サイトから
抜粋・引用・加工しています
https://librarytaisei.jp/works/vol001/index_02.html



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2020年11月6日 第052号発行

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